みんな違って みんないい
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わたしが両手を広げても
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥はわたしのように
地べたを早くは走れない
わたしが体をゆすっても
きれいな音は出ないけれど
あの鳴る鈴はわたしのように
たくさんな歌は知らないよ
鈴と小鳥と それからわたし
みんな違って みんないい
夭折した大正末期の天才詩人 金子みすゞ の、あまりにも有名な詩である。
さて、なにゆえ、金子みすゞ かといえば、実は労働組合の話がしたいのだ。
ますます、何のことやらといぶかしむ人も多かろう。それでは、謎が解かれるまで、しばし、お付き合いあれ。
学生運動(学生寮の炊フ公務員化闘争等)で一敗地にまみれたとはいえ、まだまだ意気軒昂、労働運動に新境地を求めて、丸の内の八重洲ブックセンターのはす向かいに建っていた(屋上には、組合旗が翩翻と光っていた)、さる労働組合の本部書記局で禄をはんでいた頃の(今から20年以上も前の)話である。
反原発闘争を軸とした原水禁運動をはじめ、政治闘争に強い関心があって、せっかく書記局入りしたのに、総務部で日々役職員の給与計算等、運動と全然関係ない業務につかされて(2~3年したら調査資料室に移れるなどといった根拠のない口車に乗せられたこともあり)、私は腐りきっていた。専従役員とは名ばかりの、閑職におかれてやっぱり冴えない顔をしていた、かつての職場闘争の闘士Oさんが、私のことを気にかけて、時折、話し相手になってくれていた。何の拍子でそんな話になったかは、今ではもう思い出せないのだが、労働組合のあるべき姿について、Oさんは、大変わかりやすいたとえ話をしてくれたのだ。
「おまえ、わかるか。労働組合っていうものは、“動物園”じゃなきゃ、いけないんだ。キリンさんもいれば、ゾウさんもいる、リスさんもいれば、トラさんもいる。」「いろんな動物がいるから、動物園は面白いし、動物園に行こう、っていう気になるんだ。」「キリンさんばっかり、ゾウさんばっかりじゃ、全然面白くないし、行こうっていう気にならないじゃないか」
おおむね、こんなそっけない、短い話だったような気がする。しかし、この話の背景には、国鉄の分割・民営化を巡って労働組合に分裂のクサビが打ちこまれ、日々組合離脱者が増え、さらに運動方針で組合本体が左右に分裂しようとしていた、という事情がある。
労働組合には、資本家・経営者と異なる利害を代表する、という強固なレゾンデートル(存在理由)がある。だから、労働者という同じ立場の者同士の、団結の結集軸としての意義をおろそかにしてはいけない。ここは勘所である。
さりとて、労働組合は政党や政治結社とは異なる。政党ならトラさんだけ集まれ、でよいかもしれないが、労働組合には、多種多様な人材やキャラクターを内包することで生み出される、奥深いパワーや可能性がある。そこが組合の大きな魅力だ。その一方、お互いの違いを超えて、大同団結して力を発揮する、というフレキシビリティもまた、強く求められるのである。
こうした、労働組合の微妙な、しかし、重要で本質的な役割を、Oさんは、動物園のたとえ話で、私にすっきりと伝えてくれたのである。トラさんばっかりになりたがる私の性格まで見抜いていたかどうかは知らないが、この話をしてくれたOさんには、いまでも感謝している。
(組合員 蓮華草)
(余滴 学習塾で常勤していた頃、塾の生徒から、先生は一匹オオカミだからな、と言われたことがある。どうやら生徒には、そう映ったらしい。「オオカミだなんて、そんな獰猛じゃないよ」と返したら、すかさず、生徒いわく、「じゃあ、一匹ヒツジ!」)