2010年 03月 19日
ぬか床について
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この座り込みをしながら、非正規の問題が差別の問題であるとはっきり感じられてきたと書きました。その差別の根底には幾重にも入り組んだ女性差別の問題がある。(差別と労働問題、これはよくくっついてでてきます)
チラリ、チラリと触れることでそこに問題群があることを知ってきた。少しは書いてきました、でもまだまだ書けていないと思うことはある。
「婚活よりストライキ!」
を訴えたい。
その前に、この一年ビラを配りながら考えてきたこと、この前職組の人からもコメントしていただいたこと、
「誰もが座り込みや裁判闘争できるわけではない」
このことについて考えてみます。生活と闘争について。
国際すわりこみ映画祭のシンポジュームでの「ぬか床」のこと。
ストライキを始めて失われたものはたくさんある。そのうち生活の話として私はぬか床について話をしました。それを受けて、井上昌哉の「ぬか床とストライキの両立の問題ですね」という発言をし、会場で笑いが起きて、その話は終わりになってしまった。ささきさん他からその笑いが不快だし傷ついたという指摘を受けました。
私はぬか床を大切にしていました。ぬか床は生き物で、世話をしている、帰るとぬか床が待っているという気持ちをもっていました。毎日かきまわす必要がある。それは、毎日漬物を食べているのなら、床から取り出すとき、新しい野菜を入れぐるっとするだけでいいんだから、簡単なこと。だけど、その毎日の循環が途切れると途端、ぬか床は管理の難しいものになってしまいます。
ストライキは突然はじまりました。去年も2月3月と緊迫した状態がつづき、私も座り込み現場に入り浸り、帰るとしてもたまに寝に帰るだけになってしまいました。
今までの生活が失われてしまいました。
シンポジュームでも言ったとおり、ぬか床はくさり、それを半年以上もそのままにしてしまいました。冷蔵庫も閉めっぱなし、開けるのが恐い状態、部屋はすさび、生活のにおいがなくなりました。うちによく近所のネコが遊びにきていたのですが、留守にしてばっかりなので、たまに道で会うとみゃあと勢いよく鳴きます。
私は、日常の生活が失われたということを、ぬか床のことで言おうとしました、それは目に見える形ですし、それなりのリアリティーはある。
でも、生活ってぬか床ではないでしょう。生活は人とのかかわりの中にある。(今回は書きませんが、仕事もそうです。)
今回のストライキは人とのかかわりに大きなダメージを与えました。生活場面でも職場でもキョートット出版でも。
私にはぬか漬けを一緒に食べる人がいました。一人ぐらしではあるのですが、ごく近くにささきさんがいて、ご飯を一緒に食べることが多かった。早く帰宅した方が作る、一品ずつ持ち寄って晩ご飯にするなど。近所の人もそのご飯にまざったりして。近所の人との交流も多いところで、近くの子供のちょっとした子守などもしていました。だから、生活は私の生活というより、なになにさんとの生活、なになにさんたちとの生活の集合体なわけです。
私がストライキに入ると、私だけではなく私と共に生活を持っていた人のくらしを大きくかえることになってしまった。それも、相談もなしに、急にだったのです。
このぬか床の話をあるシングルマザーにしたとき、こう言われました。ぬか床は、泣かないし、やめて帰って来いとも言わない。連れ戻しも脅迫も暴力もない。
「外泊」で座り込みをつづけて、あまり家に帰らなくなった妻を夫が連れて帰ろうという場面があります。食事も掃除も洗濯も育児もままならなくなったことを訴えるわけです。外泊は妻役割からの解放の話でもあったけれど、そこへの引きもどしの強さの話でもあった、闘争が長くなるにつれ、闘いつづけられなくなる人がどんどん出てくる。残る人、去る人。それは辛いのだけど、お互いの気持ちを理解している。
主婦が立ち上がるには、代わりに家事育児をする人、サポートする人が必要です。男性が立ち上がれるのも、裏にはおそらくサポートをしている人、多くは女性がいる。家事を含めれば総労働時間で男性よりずっと働いている女性が立ち上がるとき、ますますサポートをする人が必要。日本の男性たちはそれをずっとしてきていないのです。
女性が圧倒的に多い非常勤職員の問題で、ストライキをしたくびくびが男性だったのは、おそらく偶然ではない。特権とまでは思いませんが、私たちには少なくても生活を捨てても許させる立場にあったのは確か、立ち上がれる条件があったわけです。
そんな中、立ち上がれない、立ち上がる条件がない、多数の人たちの存在をどれだけ感じているのだろうか。最初はやはりわかっていなかった。今も気持ちがわかっているとは言えないけれど、そういう存在があることを感じられるようにしたいと思っている。
さて、生活を捨てることが許されたと書きましたが、かなり部分の生活を共にしていたささきさんに対してもそれがいえるのだろうか? これがぬか床の件で問題になったことの一つです。
ささきさんは、連れ戻したりはしない。逆に、非正規労働者ということでは当事者であり、組合員でもあり、看板など描くなど、ストライキを作っていった仲間である。運動の意味や座り込みの大変さを理解しているから、私に対して生活が壊れたことの文句を言いにくかっただろう。ただ生活が壊れただけではなかった、泊り込みをしている私が帰ってくるときは夜中やばい感じに疲れていて、ささきさんが」どこかフォローというかサポートをする立場になってしまった部分がある。私が積極的に求めたわけではないかもしれないが、それは断りにくいかんじだったと思う。以前の生活ではフォローし合う関係だったのに、一方的になってしまったのです。私に対してはそのことを言いにくいながらも言えたとしても、他の人にそのことを言って問題化しにくい。
(私とささきさんは、夫婦とかつき合っているとか、一般にわかりやすいとされてる関係ではないから、一からどういうふうにやっているのか説明しないと理解してもらえないということもありました。「外泊」で夫という立場や性役割を使って、当然のようにものを言っていたのと対称的です、カメラに向かって面とはもちろん言いにくそうでもありましたが、)
ただでさえ問題化しにくいのに、(それを問題化していくせっかくのチャンスでもあったのに)生活をぬか床で代表させて矮小化してしまうことで、ささきさんの存在はないものになってしまう。
「外泊」という女性が声をあげること(そしてその抑圧)を描いた映画の上映会でその存在をないことにされ、ますます声をあげにくくなってしまったことにささきさんは怒りを感じたのだと思う。
*
会場で起こった笑いについて、
これについては考えきれていないところもあります。
少なくても、生活の問題をぬか床の話で矮小化したことを、会場が受け入れ共有した、ということであったと思います。
それを受け入れなかった人には、孤立感をもたされたと思います。ないことにされただけではなかったのです。
*
運動には声をあげる人。そしてサポートするひとが必ず必要。現状ではそこに著しいジェンダーのアンバランスがある。
くびくびでも、外に向かって運動をしてるくびくびは男で、当初サポートをしているのは女性が中心だった。それは、もちろん女性の問題を取り上げているからの支援でもあったし、サポートするものをサポートするような共同体性もあり、またサポーター主催のイベントが企画されたりもしていたのだが、やはりサポーターが見えにくくなる面もあった。そして、ささきさんのぬか床の件への抗議のおかげで表面化できたが、(この文章書くのが遅れてしまい、申し訳ありません)、サポートしている人への抑圧もあったのだと思う。
(kyohe)
チラリ、チラリと触れることでそこに問題群があることを知ってきた。少しは書いてきました、でもまだまだ書けていないと思うことはある。
「婚活よりストライキ!」
を訴えたい。
その前に、この一年ビラを配りながら考えてきたこと、この前職組の人からもコメントしていただいたこと、
「誰もが座り込みや裁判闘争できるわけではない」
このことについて考えてみます。生活と闘争について。
国際すわりこみ映画祭のシンポジュームでの「ぬか床」のこと。
ストライキを始めて失われたものはたくさんある。そのうち生活の話として私はぬか床について話をしました。それを受けて、井上昌哉の「ぬか床とストライキの両立の問題ですね」という発言をし、会場で笑いが起きて、その話は終わりになってしまった。ささきさん他からその笑いが不快だし傷ついたという指摘を受けました。
私はぬか床を大切にしていました。ぬか床は生き物で、世話をしている、帰るとぬか床が待っているという気持ちをもっていました。毎日かきまわす必要がある。それは、毎日漬物を食べているのなら、床から取り出すとき、新しい野菜を入れぐるっとするだけでいいんだから、簡単なこと。だけど、その毎日の循環が途切れると途端、ぬか床は管理の難しいものになってしまいます。
ストライキは突然はじまりました。去年も2月3月と緊迫した状態がつづき、私も座り込み現場に入り浸り、帰るとしてもたまに寝に帰るだけになってしまいました。
今までの生活が失われてしまいました。
シンポジュームでも言ったとおり、ぬか床はくさり、それを半年以上もそのままにしてしまいました。冷蔵庫も閉めっぱなし、開けるのが恐い状態、部屋はすさび、生活のにおいがなくなりました。うちによく近所のネコが遊びにきていたのですが、留守にしてばっかりなので、たまに道で会うとみゃあと勢いよく鳴きます。
私は、日常の生活が失われたということを、ぬか床のことで言おうとしました、それは目に見える形ですし、それなりのリアリティーはある。
でも、生活ってぬか床ではないでしょう。生活は人とのかかわりの中にある。(今回は書きませんが、仕事もそうです。)
今回のストライキは人とのかかわりに大きなダメージを与えました。生活場面でも職場でもキョートット出版でも。
私にはぬか漬けを一緒に食べる人がいました。一人ぐらしではあるのですが、ごく近くにささきさんがいて、ご飯を一緒に食べることが多かった。早く帰宅した方が作る、一品ずつ持ち寄って晩ご飯にするなど。近所の人もそのご飯にまざったりして。近所の人との交流も多いところで、近くの子供のちょっとした子守などもしていました。だから、生活は私の生活というより、なになにさんとの生活、なになにさんたちとの生活の集合体なわけです。
私がストライキに入ると、私だけではなく私と共に生活を持っていた人のくらしを大きくかえることになってしまった。それも、相談もなしに、急にだったのです。
このぬか床の話をあるシングルマザーにしたとき、こう言われました。ぬか床は、泣かないし、やめて帰って来いとも言わない。連れ戻しも脅迫も暴力もない。
「外泊」で座り込みをつづけて、あまり家に帰らなくなった妻を夫が連れて帰ろうという場面があります。食事も掃除も洗濯も育児もままならなくなったことを訴えるわけです。外泊は妻役割からの解放の話でもあったけれど、そこへの引きもどしの強さの話でもあった、闘争が長くなるにつれ、闘いつづけられなくなる人がどんどん出てくる。残る人、去る人。それは辛いのだけど、お互いの気持ちを理解している。
主婦が立ち上がるには、代わりに家事育児をする人、サポートする人が必要です。男性が立ち上がれるのも、裏にはおそらくサポートをしている人、多くは女性がいる。家事を含めれば総労働時間で男性よりずっと働いている女性が立ち上がるとき、ますますサポートをする人が必要。日本の男性たちはそれをずっとしてきていないのです。
女性が圧倒的に多い非常勤職員の問題で、ストライキをしたくびくびが男性だったのは、おそらく偶然ではない。特権とまでは思いませんが、私たちには少なくても生活を捨てても許させる立場にあったのは確か、立ち上がれる条件があったわけです。
そんな中、立ち上がれない、立ち上がる条件がない、多数の人たちの存在をどれだけ感じているのだろうか。最初はやはりわかっていなかった。今も気持ちがわかっているとは言えないけれど、そういう存在があることを感じられるようにしたいと思っている。
さて、生活を捨てることが許されたと書きましたが、かなり部分の生活を共にしていたささきさんに対してもそれがいえるのだろうか? これがぬか床の件で問題になったことの一つです。
ささきさんは、連れ戻したりはしない。逆に、非正規労働者ということでは当事者であり、組合員でもあり、看板など描くなど、ストライキを作っていった仲間である。運動の意味や座り込みの大変さを理解しているから、私に対して生活が壊れたことの文句を言いにくかっただろう。ただ生活が壊れただけではなかった、泊り込みをしている私が帰ってくるときは夜中やばい感じに疲れていて、ささきさんが」どこかフォローというかサポートをする立場になってしまった部分がある。私が積極的に求めたわけではないかもしれないが、それは断りにくいかんじだったと思う。以前の生活ではフォローし合う関係だったのに、一方的になってしまったのです。私に対してはそのことを言いにくいながらも言えたとしても、他の人にそのことを言って問題化しにくい。
(私とささきさんは、夫婦とかつき合っているとか、一般にわかりやすいとされてる関係ではないから、一からどういうふうにやっているのか説明しないと理解してもらえないということもありました。「外泊」で夫という立場や性役割を使って、当然のようにものを言っていたのと対称的です、カメラに向かって面とはもちろん言いにくそうでもありましたが、)
ただでさえ問題化しにくいのに、(それを問題化していくせっかくのチャンスでもあったのに)生活をぬか床で代表させて矮小化してしまうことで、ささきさんの存在はないものになってしまう。
「外泊」という女性が声をあげること(そしてその抑圧)を描いた映画の上映会でその存在をないことにされ、ますます声をあげにくくなってしまったことにささきさんは怒りを感じたのだと思う。
*
会場で起こった笑いについて、
これについては考えきれていないところもあります。
少なくても、生活の問題をぬか床の話で矮小化したことを、会場が受け入れ共有した、ということであったと思います。
それを受け入れなかった人には、孤立感をもたされたと思います。ないことにされただけではなかったのです。
*
運動には声をあげる人。そしてサポートするひとが必ず必要。現状ではそこに著しいジェンダーのアンバランスがある。
くびくびでも、外に向かって運動をしてるくびくびは男で、当初サポートをしているのは女性が中心だった。それは、もちろん女性の問題を取り上げているからの支援でもあったし、サポートするものをサポートするような共同体性もあり、またサポーター主催のイベントが企画されたりもしていたのだが、やはりサポーターが見えにくくなる面もあった。そして、ささきさんのぬか床の件への抗議のおかげで表面化できたが、(この文章書くのが遅れてしまい、申し訳ありません)、サポートしている人への抑圧もあったのだと思う。
(kyohe)
by unionextasy
| 2010-03-19 00:38
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