2011年 04月 10日
雇い止め裁判の判決を受けて
|
雇い止め裁判の判決を受けて、感じたことを原告の二人が書きました。
判決を受けて (井上昌哉)
驚きの判決でした。解雇権濫用が認められない可能性は十分にあると覚悟していましたが、まさかその理由が、私たちの従事していた仕事が「家計補助的労働」であるから、とは。しかも京大卒でありながら、わざわざそのような労働に就いた原告らが悪い、という自己責任論まで展開されています。
和久田裁判官は、私たちが「どのような世界観・人生観の下にこうした就労形態を選択したのか明らかではない」と言います。しかし、私の世界観・人生観はいたってシンプルなものです。それは、「生きていくには眠るための小屋と靴と少しのパンさえあればよい」(映画「ミラノの奇蹟」)というもので、この単純な世界観・人生観に従って、私は京大図書館での仕事を選択しました。そして、この仕事で生計を立ててきました。
私は自分の仕事にそれなりの誇りをもち、意味のある仕事だと思って、真面目に働いてきました。それを「家計補助的労働」だと蔑み、いつでも首を切られても文句が言えないのだ、と判決ははっきり述べています。これは私自身への否定であるばかりでなく、京大の非常勤職員すべてに対する侮辱であるでしょう。(実際に家計補助であろうがなかろうが)「家計補助的労働」として長い年月、不当な差別を受け続けてきた女性労働者に対する、いわれなき断罪でもあるでしょう。
「時間数が短いから(そして時給が低いから)家計補助的労働なのであり、家計補助であるから首を切られても生活が崩壊することはない、だから解雇権濫用を適用して労働者を保護する必要はないのだ」というロジックは、およそ論理の体をなしていません。これまで判例が、何のために解雇権濫用法理を非正規にも類推適用させてきたのか、その積み重ねを台無しにする、ひどい判決だったと思います。
和久田裁判官の物言いは、塩田理事そっくりです。「今の仕事を続けるのは本人にとっても良くない」「新しい道を探したほうがいい」云々。それを法律の言葉に直しただけです。その意味で、和久田さんは「とんでもない反動裁判官」というわけではありません。塩田理事が、そして多くの男性正規職員がそうであるように、心やさしい善意の人です。ただ、自身に染みついている差別意識について無自覚なのです。
実際、判決では、「有期労働契約という雇用形態は、原則として期間を定めなければならばない理由がある場合にのみ採用されるべき」という、入り口規制の考え方が述べられています(※代理人の塩見弁護士によると、この考えが判決の中に書かれたのは初めてではないかとのこと)。これは私たちの運動に対する、和久田さんなりの回答(レスポンス)であると感じます。
ただ、善意であるがゆえに、問題はとても根深く感じられるのです。今回の判決に対して、怒りよりも無力感のほうを私が多く感じるのはそのためです。
「差別」と闘ってきたこの2年間、その差別が判決でこうまで堂々と書かれ、それが雇い止めを正当化する理由とされたことに、深い脱力感を禁じ得ません。そして同時に、差別とは何か? (お前は)差別とどう向き合うのか?という問いを、否応なしに突きつけられました。その意味で、とても怖い判決だったと思います。
****************
判決について(小川恭平)
「なんでお前らは京大を出ていながら、女(パート)子供(アルバイト)のするような仕事をしてるんだ。そんな家計補助的なものは法で保護する労働者に値しない。自分でそれを選んだんだろうから、くびになっても文句をいうな、(ちゃんとした仕事につけ)」という判決でした。
裁判官・和久田さんは思いを入れて判決を書いたんだとは思う。それが、こんな飲み屋できくような、おやじからの説教だとは‥‥、私たちは何のために裁判をしてるんだ‥‥と言葉を失った。
私たちはまさにこういうものと闘っていた。この判決文に書かれているようなことに対して、闘ってきたんだと思う。大学側の主張はウソは多かったけど、ここまで差別的ではなかったから、こんな負けかたをするとは思っていなかった。
法に負けたというより、世の中の女性差別に負けた。
私たちが女性だったら、説教すらつかなかったと思われる。「家計補助的な仕事は使い捨てられて当然」それだけだったと思う。
これはあまりにひどい差別だ。判決文を訴えたい。(本当に国連女性差別撤廃委員会などに訴えたほうがいいかもしれない。)
この家計補助的という考え方は、日本の労働の最大の問題といってもいい。パート労働は、主婦のものとされ、家計補助だから、一人で生きていくだけの賃金は必要ないとされ、そして首切り自由。これは都合いいと広がっていったのが日本の非正規労働である。
(そして、広がりすぎて、とても非正規が家計補助といえなくなってしまってるのが現在だ。)
裁判官は自分の書いた判決が女性差別だと気付いてもいないだろう。あまりに世の中に浸透してるし、差別しているほうは差別には気付かないものだ。なので、ちゃんと陳述書の中で、パート労働の差別性について書いておけばと後悔している。
世間も裁判も一緒か。権利意識をもって、二年もがんばって裁判してきたが、こんな判決をもらうとなんだかむなしい。
最後に一点
判決文で一番ショックだったことは、時給が安いから(+労働時間が短い=週30時間未満)、家計補助だとされたことだ。
非正規に対する差別によって、時給が低くされているのに、さらに収入が低いことが理由に、くびを切っていいと差別されること。
差別を理由に、差別を肯定すること。
そういう判決だった。ひどいと思う。
判決を受けて (井上昌哉)
驚きの判決でした。解雇権濫用が認められない可能性は十分にあると覚悟していましたが、まさかその理由が、私たちの従事していた仕事が「家計補助的労働」であるから、とは。しかも京大卒でありながら、わざわざそのような労働に就いた原告らが悪い、という自己責任論まで展開されています。
和久田裁判官は、私たちが「どのような世界観・人生観の下にこうした就労形態を選択したのか明らかではない」と言います。しかし、私の世界観・人生観はいたってシンプルなものです。それは、「生きていくには眠るための小屋と靴と少しのパンさえあればよい」(映画「ミラノの奇蹟」)というもので、この単純な世界観・人生観に従って、私は京大図書館での仕事を選択しました。そして、この仕事で生計を立ててきました。
私は自分の仕事にそれなりの誇りをもち、意味のある仕事だと思って、真面目に働いてきました。それを「家計補助的労働」だと蔑み、いつでも首を切られても文句が言えないのだ、と判決ははっきり述べています。これは私自身への否定であるばかりでなく、京大の非常勤職員すべてに対する侮辱であるでしょう。(実際に家計補助であろうがなかろうが)「家計補助的労働」として長い年月、不当な差別を受け続けてきた女性労働者に対する、いわれなき断罪でもあるでしょう。
「時間数が短いから(そして時給が低いから)家計補助的労働なのであり、家計補助であるから首を切られても生活が崩壊することはない、だから解雇権濫用を適用して労働者を保護する必要はないのだ」というロジックは、およそ論理の体をなしていません。これまで判例が、何のために解雇権濫用法理を非正規にも類推適用させてきたのか、その積み重ねを台無しにする、ひどい判決だったと思います。
和久田裁判官の物言いは、塩田理事そっくりです。「今の仕事を続けるのは本人にとっても良くない」「新しい道を探したほうがいい」云々。それを法律の言葉に直しただけです。その意味で、和久田さんは「とんでもない反動裁判官」というわけではありません。塩田理事が、そして多くの男性正規職員がそうであるように、心やさしい善意の人です。ただ、自身に染みついている差別意識について無自覚なのです。
実際、判決では、「有期労働契約という雇用形態は、原則として期間を定めなければならばない理由がある場合にのみ採用されるべき」という、入り口規制の考え方が述べられています(※代理人の塩見弁護士によると、この考えが判決の中に書かれたのは初めてではないかとのこと)。これは私たちの運動に対する、和久田さんなりの回答(レスポンス)であると感じます。
ただ、善意であるがゆえに、問題はとても根深く感じられるのです。今回の判決に対して、怒りよりも無力感のほうを私が多く感じるのはそのためです。
「差別」と闘ってきたこの2年間、その差別が判決でこうまで堂々と書かれ、それが雇い止めを正当化する理由とされたことに、深い脱力感を禁じ得ません。そして同時に、差別とは何か? (お前は)差別とどう向き合うのか?という問いを、否応なしに突きつけられました。その意味で、とても怖い判決だったと思います。
判決について(小川恭平)
「なんでお前らは京大を出ていながら、女(パート)子供(アルバイト)のするような仕事をしてるんだ。そんな家計補助的なものは法で保護する労働者に値しない。自分でそれを選んだんだろうから、くびになっても文句をいうな、(ちゃんとした仕事につけ)」という判決でした。
裁判官・和久田さんは思いを入れて判決を書いたんだとは思う。それが、こんな飲み屋できくような、おやじからの説教だとは‥‥、私たちは何のために裁判をしてるんだ‥‥と言葉を失った。
私たちはまさにこういうものと闘っていた。この判決文に書かれているようなことに対して、闘ってきたんだと思う。大学側の主張はウソは多かったけど、ここまで差別的ではなかったから、こんな負けかたをするとは思っていなかった。
法に負けたというより、世の中の女性差別に負けた。
私たちが女性だったら、説教すらつかなかったと思われる。「家計補助的な仕事は使い捨てられて当然」それだけだったと思う。
これはあまりにひどい差別だ。判決文を訴えたい。(本当に国連女性差別撤廃委員会などに訴えたほうがいいかもしれない。)
この家計補助的という考え方は、日本の労働の最大の問題といってもいい。パート労働は、主婦のものとされ、家計補助だから、一人で生きていくだけの賃金は必要ないとされ、そして首切り自由。これは都合いいと広がっていったのが日本の非正規労働である。
(そして、広がりすぎて、とても非正規が家計補助といえなくなってしまってるのが現在だ。)
裁判官は自分の書いた判決が女性差別だと気付いてもいないだろう。あまりに世の中に浸透してるし、差別しているほうは差別には気付かないものだ。なので、ちゃんと陳述書の中で、パート労働の差別性について書いておけばと後悔している。
世間も裁判も一緒か。権利意識をもって、二年もがんばって裁判してきたが、こんな判決をもらうとなんだかむなしい。
最後に一点
判決文で一番ショックだったことは、時給が安いから(+労働時間が短い=週30時間未満)、家計補助だとされたことだ。
非正規に対する差別によって、時給が低くされているのに、さらに収入が低いことが理由に、くびを切っていいと差別されること。
差別を理由に、差別を肯定すること。
そういう判決だった。ひどいと思う。
判決への感想は以上なのですが、男性として生きている私がこの女性差別的な判決に対して、どう向き合うか問われていると感じます。以下、まとまらない感じにはなると思いますが、書いていきます。
*
私も男性として生きてるから、女性差別について気付かないでいられることが多い。そして、差別する側にまわっているんだと思う。
今回、非正規雇用という女性労働の問題にかかわって、おかしい、おかしいと思ううちに、これが女性差別かと少しずつ感じてきた。
でも、判決後の集会で、判決の趣旨を説明を聞いて、女性の支援者の方々は瞬間的に差別判決だ、と怒りを表明されたけど、私はあっけにとられてしまい、怒りを感じるまで時間がかかってしまった。それは、日常の中で差別にさらされている人とそうでない人間との差がでてしまったんだと思う。
*
この判決、非常に女性差別的であるが、井上・小川が差別されているわけではない。
和久田裁判官は同じ男であり京大卒である井上・小川が、自分がさげすむ女性労働(パート労働)をしていることを脅威に感じたのかもしれない。「原告の世界観についてはわからない」という言葉が象徴的だ。
和久田さんは本心をいっていると思う。つまり、自分は苦学して京大をでて司法試験にも受かり、裁判官という重要かつ激務について妻子を養っている(知らないが)。それに比べてお前らはなんだ、と怒って説教したということだろう。自分の生き方が否定されたような気持ちになっているのだと思う。
これは和久田さんに限ったものではない、世の中の多くの人の気持ちかもしれない。2年運動をやってきてわかる。
なので、こちら側も本気度が試されていると思う。非正規という生き方。非正規という生き方を本気で肯定する。私はそうしていこうと思う。
*
こう書くと特権的と感じられるだろう。「選んで非正規をやってるんちゃうわ」これが普通だから。
もちろん私も「選んで非正規をやっている」とはいえない。しかし今はあまり選択の余地はないが、かつてはあったかもしれない、それは特権といえる。
私にも正規的なものに対するあこがれはあった。しかし、三十代半ばに、すっかりあきらめた。
*
むしろ特権的なのは、私にある余裕のようなものについてかもしれない。どこかに余裕があったから、ストライキができた、裁判闘争ができた。
余裕とは、時間・金銭・人とつながりである。また、余裕とは自己肯定感とか、安全であると感じられることである。
しかし、多くの非正規は声を上げる余裕がない。
なぜ、私に余裕があるのか?
私に余裕があるのは、搾取や差別によっているのではないか?
余裕によって余裕ないものを搾取をしていまいか?
*
判決を読んだ母から電話がきた。
「お前は間違ってないから、自信を持て。」
「パート労働の現実は本当に大変。お前たちの読んでると甘く感じる。」
母は仕事柄、主婦や非正規労働者の話を聞くことが多い。そして、正規・非正規さまざまな仕事をしながら、2人の子供を育てた人物である。
*
判決は、お前は本当に当事者なの?と言ってるようにも感じる。
私は、当事者なのか、当事者ではないのか。実際、その問いと矛盾をかかえながらやってきたと思う。
ストライキを始めて二年以上たった。最初から非常勤職員の問題は女性差別の問題であると指摘して、それで女性非正規から支持をしていただいた。でも、ちゃんと女性労働の問題がわかっていたはずがない。
そのことに、まどろこっしい気持ちになりながらも、支えてくれたり、教えてくれた人は多い。
吸収していかなくてはと思っている。
*
書けば書くほど、違和感が出てくる。書くということが力だからだろうか?
差別を受けていないものが、差別と闘うということは、自分が力を行使するのではなく、
差別され力を奪われているものが、力を発揮できるように環境を作っていくということではないか。
そういう内容の指摘も受けたことがある。
*
被害者でもあり、加害者でもある。
覚悟を決めて、女性差別について、取り組んでいこうと思っている。
by unionextasy
| 2011-04-10 17:08
| 私たちの主張